――君は帰るべきだ。君が死んで、悲しむ誰かが居るのなら。
 自分が死んだところで、誰が悲しむわけでもない。あの時、そう思ったのは確かだった。だがその一方で、そこで父親の顔を思い浮かべてしまった自分がいたことも事実だ。まだあの男を”父”と慕おうとしている自分が、自分のそんな弱さが、私はただ悔しかった。そしてその弱さを、あんな初対面の少年の忠告程度で思い浮かべてしまった、というその事実も、また私を苛立たせる。
 父というものが、私の中でどういう存在であるのか。未だに私は、それを明言することが出来ずにいる。それは、かのシスター・イレイニアの死のせいもあったし、それを自分がやったのだと、見え見えの嘘をつくあの男自身のせいでもあった。――どうしてそれが”嘘”だと言えるのか。それが、あのあまりにリアルな夢を信じているせいだとは、誰にも、それこそシスター・イレイニアにさえ言えない事実でもある。
 少年の顔を見るたびに、苛立ってしまう自分がいることにも気付いていた。あの少年自身は気付いていないのかもしれないが、きっと彼は、自分でただ自分の首を絞め続けている。そして、それが断罪だと信じている愚か者だ。――それが自分自身にも当てはまる言葉だと気付かされたのも、あの無遠慮に人の領域へと踏み込んでくる、迷惑な少年のせいであった。
 ――復讐……そんなことを考えてはいませんか?
 いつか放たれた問い。その問いは、私の鼓動を早くする。その理由も、ようやく気付いた……ただ私は、それが復讐なのだと思い込もうとしていたのだ。そうでなければ、私には父を殺せないから。今思い返せばおかしな話だと思う――本当は、彼がシスター・イレイニアを殺してなどいないと、どこかでそう確信していたはずなのに。
 ただ、誰もが彼が殺したと叫んでいた。司教さまが、シスターたちが、そして彼自身が。私には、そこから耳を塞いでしまうだけの勇気がなかった。ただそれだけの……情けないだけの話だ。
 今になって思えば、耳を塞いでしまえばよかっただけではないか。自分の中で確信があったはずだというのに、どうして私は、彼を殺さなければならないと思ったのだろうか。どうして私は、そんなことを思い始めてしまったのだろうか。
 ――思い返せば、そう。あれは、初めてあの拳銃をその手に握った時の……。

 その次の日、イリア・ティザードが目を覚ますことはなかった。教会中のシスターや神父たちが、ひどく慌ててはいたが、外傷などはどこにも見当たらず、魔術的なものが施されている痕跡もない。ただ単なる過労だと告げると、彼らは一様に胸を撫で下ろした。
 くすり、としてしまう。それほどに、この少女は愛されているのだろう。それは外見だけではない、きっと、もっと根底にある人を惹き付けるような”何か”に違いない。
「よ、リズ」
 ふと声を掛けられて、リズは振り向いた。そこには、にやにやとにやけたスイが、こちらに歩み寄ってくるところだった。
「昨日はどーだったー、おい? 二人そろって朝帰り、だもんなあ?」
 ケケケ、と悪魔じみた笑いを浮かべるその友人に、はあ、と溜息を落とす。本当にこの男は、この手の話題になったらとことん意地が悪い。多分きっと、悪魔よりもずっと。
「そういう冗談はどうかと思うよ、スイ。それより、報告書は読んだ?」
「あー、まあな」
 さすがに無視できない話題に会話を逸らされて、スイはどこか不満げに頷いた。きっとこうでもしないと、一日中この男に同じ話題で付き合わされてしまう。
 報告書には、概ね昨日あった全てのことを記しておいた。口頭で伝えなかったのは、無論誰かに聞かれる可能性があるからで、書類ならば、手渡しして後に処分してしまえばそれでいい。
「それで、身元は割れた?」
「ああ……頬に傷がある、白か黒の髪、んで琥珀色の瞳だろ? んでまあ失踪中、ってことなら一人しかないな――グリンリッジ・テイラーだ」
 はっきりと断言して、彼は自分の横に追いついてくる。誰か居ないかと、一応集中して気配を探っては見たが、何もない。まあ、この友人がこういったことを断言する時は、そういう心配をする必要もないのだろうけれど。
 解ってしまえば、ひどく簡単な構図だった。シスター・イレイニア殺害の犯人と推測されていた魔術師、グリンリッジ・テイラーは、イリア・ティザードの実の父だった。
 恐らく、二人は以前からコンタクトを図っていて、イリア自身が、グリンリッジからシスター・イレイニア殺害の自供を受けていて、シスター・イレイニアを慕っていたイリアは、グリンリッジを殺害しようとした、ということだろう。
 ただ、疑問はまだある。まず一つは、彼女が拳銃をどこで手に入れたのか、ということ。現在、拳銃を保持しているのは、国立の騎士団か、あるいは十字教会か秘術教団の三者のみ。それ以外のルートで入手することは不可能に近いし、第一にして、民間人の所持や譲渡は強く禁じられているはずだ。
(普通に考えるなら、秘術教団かな。一番入手しやすい)
 ただ問題は、どうやって入手したか、だ。彼女と教団とは、接点がありそうで、実のところ難しい。グリンリッジを殺すための道具をグリンリッジから受け取るはずもなく、それ以外となれば、彼女と教団とはまるで接点がない。
 ――いや、今はそれよりも問題なのは……。
「スイ、礼のものに関しては?」
「ああ……ここ数年は観測されてないな。発現すれば街一帯が巻き込まれるって言うし、まず間違いないだろ」
 そうか、とだけ答えて、リズは歩を進めた。――結論は、きっとすぐそこにある。ただ今は仮定に過ぎず、あまりにも不明瞭だ。だが、シスター・イレイニア殺害から始まる一連の騒動には、まず間違いなくひとつの中核があった。
 ……行かなければならないだろう。行って、そして確かめれば、きっと全てが終われるはずだ。

 ふと、空を仰げば、銀色の月があった。降り注ぐ銀の光が、静かに、自分の終わりが近いことを告げている。
 それは、ひどく楽な選択ではある――何もかもを諦めて、ただ安らかに眠ること。それを、あの女性が赦してくれるかどうかなどは解らないが、それは、ひどく手を伸ばしたい選択ではあった。自分が死ねば、少なくともあの娘は救われるはずだ。
 ふと、笑みがこぼれる。――それは拙い幻想、いつか届かぬ遠くに離れてしまった小さな手が、届くところにあると気付いて、どうしても手を伸ばしてみたくなった。それが、ひどい間違いだとも気付かずに。手が届くと、そんな幻想を抱いてしまった自分が恨めしい。失われなくてもいいものが失われてから、いつもそんな間違いに気付く。
 淡い光は、ただひたすらに、暗かったはずの路地を照らしていた。どこまでも高く、どこまでも遠い、その銀色の光に、ただ手を伸ばす。届かないと知りながらも――いや、届かないからこそ、人はその手を伸ばすのかもしれない。
 救いならばある。彼女は、自分が思っていたよりもずっと、いい子に育ってくれていた。このことだけは感謝しなければならない。無論、それはいもしない神ではなく、自分のせいで失われてしまった命に。
 ああ……と、息が零れる。そうか、自分はこうして、何もできないままに――
「死んでもらってもいいのですが、それは味気がなさすぎるでしょう?」
 そんな嫌味な声に、はっと視線を下げた。その、いつか聞いた声に、思わず全身の筋肉が硬直する。
 眼前に居る男は、あまりに深い漆黒を纏っていた。それは、人が世界を取り込まんとする渦。魔力と呼ばれる、人を人で足りえなくさせる黒。こうして見ているだけでも、ザワザワとする違和感が肌を撫でていた。
「本当は、気付かないまま縊り殺してやろうかとも思ったんですが。しかし、その笑顔のままに死なれては、手こずらされた分の行き所がなくなるでしょう?」
 ギリ、と食い縛った歯が音を立てる。ここまで近寄られたというのに、気付けなかったのは完全な失策だ。そこまでに自分の結界が弱まっていたのかと、ただ悔やむほかない。
 くすんだブロンドの髪に漆黒を纏わりつかせるその男は、皮肉げな笑みを浮かべていた。その背後には、別の男たち数人の姿が見える。――完全な、失策だ。
 逃げ場は無い。逃がしてなどくれないだろう。戦ったところで勝てるはずがないと、その男から押し寄せる魔力の感触と、もはや動こうとすらしない四肢が告げていた。
「だらしがないですねえ。かつては賢者とさえ呼ばれていたはずでしょう、グリンリッジ・テイラー?」
 くすくすと子供のような笑みを零しながら、一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる。その一歩が、彼の手の長さにまで届いたら、きっと自分は死ぬだろう。死ねばきっと、彼らに脳から情報を抜かれて、全てに気付かれてしまう。
 それだけは避けねばならない。護らねばならぬものがある。立ち上がることさえも出来ぬなら、今日まで何のために生きてきたのか。実の娘に殺されたいなどという欲を掻かず、さっさと一人で死んでしまえばよかったものを。
 無理矢理に、四肢に魔力を徹す。青い線が繋がる感触に、彼は歓喜した。これならば、まだ立ち上がれる。――コツ、と彼の足が止まる。その右手の間合までは、あと三歩といったところか。
「立ち上がりますか。いやはや、ご老体とはいえ、侮れぬものですねえ」
 男が何かを言っている気がするが、それも耳に届いていない。だが、その嘲笑に、彼が自分を侮っていることだけは解った。……突くのなら、そこしかない。
 右足を踏み出す。噛み合わないバランスに、思わずグラリとするが、それも無視した。左足を踏み出す。そのバランスの悪さに、思わず転倒しそうになる。あと一歩。男は、ただ嘲笑っていた。
 右手に魔力を込める。蒼く灯る光に、手ごたえを感じて。それを見た男の笑いが、ほんのわずかだけ硬直した。――もう遅い。
 右足を突き出す。力の限りに突き出したそれに、筋肉は悲鳴を上げた。それも無視する。肩を振り上げて、振り下ろす。魔力を込めたその一撃は、まず間違いなくその男の胸に風穴を開けるだろう。
 ふと、視界の端に、黒い髪が揺れるのを見た。銀の月に照らされた、天使のような美しいかんばせに、思わず息が詰まる。どうしてここにいるのかと、その疑問ばかりが頭を反芻して、意識を埋め尽くしてゆく。
 そうして。不意に受けた衝撃にその視界が派手に回転する。意識が途切れる寸前に彼が見たものは、自らの娘の姿ではなく、笑みを称える男の顔だった。

「父さん!」
 思わず張り上げた声は、思っていたよりもはるかに大きく、その路地に響いた。足が駆け出す。意識は白く染まって、何も考えられなかった。父を吹き飛ばした男のことも、うまく視界には入らない。
 吹き飛ばされて、背中から壁に激突した父の頬に、屈み込んで、そっと触れた。温かい雫が掌に落ちて、心臓が止まるくらいにドキリとする――血だ。
 ふと、その血に濡れた顔が、こちらを見上げる。その瞳には、もう藁に縋るほどに虚ろな光しかない。
「どうして……ここにいる」
 絞り込むような言葉の意味が解らず、イリアは目を丸くするしかなく。
「おやおや。親子の感動の再会、と言ったところでしょうか?」
 くすくす、と漏れるような笑い声に、はっと振り向く。そこには、くすんだブロンドの髪を揺らす、嫌な笑みを口元に張り付かせた男が立っていた。――先ほど、父を吹き飛ばした、魔術師。
「お前……!」
 まるで沸騰するような怒りのあまり、言葉が口を突いて出た。ぎゅ、と拳を握る右手に、痛いほど力が篭る。だが、そんな全力の殺意を込めた視線さえ、男は手を振って笑ってのけた。
「イヤだなあ。せっかく父親の死に目に合わせてあげたのだから、もう少し感謝して欲しいものだけれど」
 ――会わせてあげたのだから? その言葉を胸の中で繰り返して、ただ確認するように繰り返して……そうして、男は嘲笑っていた。それは絶望の笑み、否、絶望をただ待ち望むだけの笑み。
「……お前は」
 出来るだけ、出来るだけ平静にと、男を睨みつける。だがその光に、先ほどまでの力がないこともまた、解ってはいた。それでも、男を睨みつけることはやめない――でなければ、自分は挫けてしまう。そんな気がした。
 男の笑みは消えない。くすんだブロンドの髪を撫でながら、こちらを見下ろしている。睨み返すのを止めたら負けだ。この男は、きっとそういう男に違いあるまい。
「イリア・ティザード……いえ、イリア・テイラーでしたか? 貴方の父上には、随分と手こずらされてしまいましてね」
 ぐい、とその腕が伸ばされる。その長く整った指先は、しかし、今まで見てきたどの指先よりもくすんで、歪んで見えた。
 その指先が、眼前に迫る。動くことも出来ず、声を上げることも出来ず、そして彼から視線を外すことも出来ない。出来ないままに――ただ、ここで自分は死ぬのだと、そう自覚した。それは、死という絶対的なものへの直面。抗うことも出来ず、ただ朽ち果てるしかない。
 最後まで、声が漏れることはなかった。指先が触れる、そんな感触。――視界は、鮮血で赤く染まる。生ぬるい感触が、べっとりと顔に張り付いて、叫ぶことも泣くことも出来ないまま、イリアはそれを見つめていた。
 むせ返るような血のニオイ。顔だけではない、全身に降り注ぐようなその血の量は、まず間違いなく致死量だ。血の雨、などという言葉でとても比喩できるものではなく、まるでそれは瀑布のそれに近い。どばどばと垂れ流されるそれに、しかし痛みはなかった。
 ――終わりは、いつまで待ってもやってこなかった。赤く染まった視界の中、もしかすれば、この瞬間が永遠に続くのではないかという錯覚さえ覚える。真実、もはや時間の感覚などとうになくなっていた。それは一瞬なのか、それとも永遠なのか。
 ……だが。その感覚も、ふわりと自分の肩を包んだ感触に、あっさりと解けて消えた。

 意味が解らない。夥しい血を流す指――があった場所――を抱えて、痛みを叫びで掻き消そうと足掻きながら、そう毒づいた。
 少女を殺すつもりだった、ただそれだけのことだ。この少女の亡骸をあの男、忌々しいグリンリッジに突きつけて、絶望のどん底に突き落としながら死んでもらう。星の雫の記憶など、後でその死体から抜き取ればいい。
 それは、ひどく簡単な仕事のはずだった。魔術結界すら維持できなくなった、かつて魔術師であっただけのモノに、負ける道理などあるはずがなかった。それが、かつて第六の賢者と歌われた、最高峰の魔術師の一人であったとしても。
 結果として、それは簡単な仕事であったろう。だが一方で、思わぬ傷がついた。立っているだけでようやくなはずのグリンリッジが、予想以上の反撃を返してきたからだ。だから、もっと絶望させてやろうと思った。もとよりそのつもりだったが、よりその想いを強くしたのは確かだ。
 あの少女を、偽造したグリンリッジの筆跡で書いた手紙で呼び出して、再会させる。少女は思っていた通りに行動したし、思っていた通りの存在だった。あとはこの娘を殺せばいい。それで終わりなはずだった。
 魔力を込めた指先。あと数センチ伸ばせば、まず間違いなく、悠々と少女の額を頭蓋ごと貫いていた。それは鋼よりも遥かに堅く、刃よりも遥かに鋭い。人間を容易に断ち切る指先を、また人間が断ち切れぬのは道理。
 ――だと、いうのに。このザマは何だ? これは一体何なのだ?
「何なのだ……何なのだ、貴様は!」
 ふわり、と月の光に翻る、銀と漆黒の外套。漆黒の髪は闇に溶け、深紫の双眸は、妖しげな光をたたえていた。胸元の紅い十字架が、きらりと銀の月に煌く。少年は、こちらの叫びには答えず、その外套を、血で赤く濡れた少女の肩へと乗せた。――夥しいまでのその血の全ては、自分の指からあふれ出したもの。脳の神経が焼き切れるかのように、意識が沸騰した。
 自分は何かを叫んでいたように思う。だが、そんなことは関係ない。ただひたすら、この男を殺さねばならない。意識を加速させる。奥底に触れる。それの手を引くように、全身全霊の魔力を、その魔術概念デーモン へと注ぎ込んだ。
 顕現するは、不可視の風の瀑布。あらゆるものを引き裂いて、叩き潰す。その威力たるや、男を吹き飛ばしたそれとも、少女の眉間を貫こうとしたそれとも、到底比べ物にならない規模だ。まず間違いなく、数メートル規模のクレーターを穿つだろう。
 ――死んだ。これは死んだ。戦略級ともいえる巨大魔術に、それを確信する。これを受けきれる者は魔術師でもそう多くないことを、自分は知っていた。ましてや、異端審問官エクソシスト と言えど、たかが人間にこれをどうにか出来るはずがない。
 それは、まず間違いなく常識そのものだった。魔術の力は魔術でしか拮抗しえず、人の身では、魔術の成れの果てとも言える聖遺物サークレッド に頼るしかない。それ以外の何かで拮抗できるとするならば、それは人ではない、化物だ。
「あ――」
 ここで初めて、少女の声が、風の轟音に混じる。顕現した、死そのものとしか言えない風の瀑布を、ただ唖然と眺めている。周囲を蹂躙していく猛威を、もはや止める術などありはしない。その高揚感に頬が緩むのを、止めようとするつもりもなかった。
 ふと突き出された少年の手。それは影に似ている。それほどに、まるで夜の闇を吸い尽くしたかのような、純然たる漆黒。不意に伸ばされたそれは、破滅的な死の具現たる風の瀑布を、予告も余韻も何もなく、ただ握りつぶした。
 音はない。訪れたのは静寂だけだった。風が、ふわりと頬を撫でる。それは、先ほどまで猛威を振るっていた、全てを蹂躙するかのようなそれではない、ただ頬を撫でるだけの優しい風。その感触に、頬を流れる汗を自覚した。
 何が起こったのか。それを理解しえた者は、その少年以外に、その場に存在していない。ただ、少年が手を掲げて握ったかと思えば、無力な三人を叩き潰すはずであった風の瀑布が、跡形もなく消え去った。
 男の確信は、まず間違ってなどいなかった。たとえ異端審問官エクソシスト と言えど、所詮は人間。あの規模の魔術は、人がどうこう出来るレベルのものではない。……ただ、唯一の誤算と言えば、その少年があまりにも想定外の化物だった、ということだけでしかなかった。
 魔術というのは、厳密にはこの世界で起きる現象ではない。現象を世界に投射するものだ。いかに物理的に見えたとしても、それは現実に起こっているわけではなく、ただそう見えるに過ぎない。それを物理的に、しかも素手で握り潰すなどと、それこそありえる話ではない。
(……何なのだ?)
 それは、繰り返してきた問い。叫ぶようでいて、絶望しているようでもある問い。かつて答えられなかったそれに、しかし答える声があった。
「我ら”執行者”は、十字騎士軍セント・マグナ の名を以って、今ここに私刑を執行する」
 それは宣告。問いを充足させるには程遠く、心を凍てつかせるには十分すぎた。何の激情も篭っていないはずの声には、しかし明確な殺意があった。いや、それは殺意ですらない、ただの予定調和。
 それは、あまりにも現実離れしたセリフだと、ただ思った。
 執行者。ただひたすらに魔術師を狩るもの。死神。聖書キエルハイマ にある虹の冠オウリオウル を暗示するものたち。十三の悪魔をその手に抱く、十三人の悪魔。契名使い。――そのいずれの名にしたところで、彼らを形容しえるものは存在しない。ただ、魔術師ならば誰とて知っている名前だった。曰く、その名を聞けば、まず逃げろと。そうして生き残れたほんの一握りになれたなら、奴らの目の届かない、どこか遠くへと逃げろと。
 それは伝説でしかなかった。そんなものが存在しているなどと、誰も信じてなどいない。そんなことを声高々に叫ぶ者達は、ただの狂人だと謗られた。
 真実、彼らと実際に相対した、などという話は一度たりとも聞いたことがなかった。それは、幽霊だのと同じ程度のただのホラ話だと、誰も疑いはしなかった。――今ならば、解る。こんなものと相対して、生き残れるはずがない。
 立ち込める死の感触。それは、殺気などという生ぬるいものではない。肌を刺すなどというレベルではない。心臓にナイフを差し込まれて、ただひたすらに死を待つしかない、そんな感触。指先一本動かしただけで、命の灯火は呆気なく消え去るだろう。
 それは、あまりに隔絶された力の差。恐怖を認められずに飛び込んだ男が、塵芥に消えてゆくのを見つめながら、彼はそれを自覚していた。まるで、目の前にある現実が、ガラス一枚隔てた向こう側にある世界のような、そんな感覚。目の前で起きる惨劇を、ただぼうっと見つめることしか出来なかった。指一本、筋肉ひとつでも動かせば、きっと自分は死ぬだろう。
 少年に魔術を放とうと魔力を練った一人が、息をする暇もなく素手で貫かれる。その漆黒を吸った腕は、果たしてどのような力を持つのか、あらゆる魔力を引き裂いて、あらゆる肉を引き裂いた。魔術ではない――魔術であるならば、自分とて見分けられる。それは、ただ現実に広がる理不尽そのものだった。
 男の胸から、ずるりと腕を引き抜いた少年は、夥しいまでの血を流す男を地面に捨てて、こちらへと歩を進めた。どういう理屈か、その漆黒の腕には血の一滴さえ見当たらない。
「助け……て、くれ」
 情けないセリフだと、そんなことは自覚している。これはただの命乞いだ。ただそれでも、そうしなければ死んでしまう。すべてが終わってしまう。魔術師の矜持などは、こんな時にまで持ち続けていられるほど殊勝なものではなかった。――だが。
「……断罪に、例外はない」
 振り下ろされた漆黒が、跡形もなく彼の意識を破壊した。

 - † - † -

「……イリア」
 唐突に自分の名前を呼んだ声に、頬に触れていた手を止めた。それは驚きからではない、父の声が、あまりに儚く聞こえたから。凍てつくようなその頬の冷たさに、ぞっとする。これでは、まるで――……。
「いいのだよ」
 そっと、自分の手に、父の手が重ねられた。驚くほどに青白く、驚くほどにしわがれている。
「いいのだ、私は。……元より、とっくの昔に死んでいる体なのだから」
 その疲れきった言葉に、弱々しく首を振ることしかできなかった。そんな、まるで死んでしまうようなことは言わないで欲しい、などと、そんな言葉も声にならない。……いつから、自分はこんなにも弱くなってしまったのだろう。頬を伝う涙を自覚しながらも、そう、他人事のように思う自分がいた。
 父との繋がり。それが今はもう、こんな冷え切った体温しかないのだと、どうしようもなく痛む胸が告げていて。
「ただそれよりも……お前に言っておかなければならないことがある」
 その言葉は、わずかしか動かぬ口の割に、ひどく明確だった。ただそれが、生気があるという意味に繋がっているわけではない。……それは、あまりに残酷な宣告のように思えた。
「シスター・イレイニアは……」
「シスター・イレイニアは魔術師だった。それも裏切り者のね」
 パアンッ、という破裂音。それを聞いたのは、目の前の”ソレ”が、破裂するように真っ赤な鮮血を撒き散らしてからだった。……理解が追いつかなかった。ただ解るのは、先ほどまでこちらを見つめていた琥珀色の瞳は、今は鮮血に濡れている。
 少年が、まるで驚くように、自分の背後を見上げているのが解る。その瞳に、彼もまた、自分と同じなのかもしれないと、ふとそんなことを思った。
 緩んだ時の中を泳ぐように、ゆっくりと、自分の顔を振り向かせる。そこにあった、形容しがたい感情――恐怖、怒り、憎悪。そのいずれにも当てはまらない、あるいはそのいずれにも当てはまる何かが、自分の意識を混迷させていた。
「そして、グリンリッジ・テイラーは死んだ。これでようやく、全てが終わったようだな」
 そこにあるのは、漆黒の銃口。硝煙を漂わせるそれは、かつて自分がその手に握ったものと酷似していた。だが今、それをその手に握っているのは、自分ではない――。
「ヒュイ、スマン……司教……?」
 それは、見慣れたはずの顔だった。いつも柔和で、優しげで、誰にも媚びない……かつて、何度なく自分が憧れたその笑顔。しかし、それはもはや、ほっそりとした顔のどこにも見当たらず、面影すら跡形もない。
「動かないでくれよ、スカーレッド。死んだ瞬間に引いてしまわないとも限らないのでね」
 その言葉に、ぴくり、と跳躍しかけた少年の動きが止まる。その、どこまでも深い漆黒の銃口は、はっきりと、こちらの眉間に突きつけられていた。そのモゾモゾとする額の違和感と緊張感に、頬を汗が伝う。あの指をあと一寸でも動かせば、自分の命はこの世から完全に消え去るだろう。
 ギリ、と歯を噛む音が聞こえて、ついで張り詰めるような冷たい殺気が漂った。それは、まるで大気が歪むかのような、圧倒的な存在感。
「ならばその逆も知っておくことだ。お前がその指を引いた瞬間が、お前の命日になる」
「勘違いしないでくれたまえ、執行者。私はこれ以上、君たちのような化物に用は無いのだから。グリンリッジが死ねば、それでいいのさ。……まあ、こんな三下が何人死のうと、私の責任ではない」
 そういいながら、と足元の死体を踏みにじった。それは、先ほど少年に殺された、無残な男の死骸。ガリ、と骨の砕ける嫌な音が響く。
 にやにやと、かつて尊敬したはずの笑みは、張り付くような嫌な笑みに変わっていた。それは、彼の白髪のせいもあって、異様な雰囲気を捻出している。ぞわり、と嫌な感覚が背筋を伝った。……ふと、その笑みが、少年から自分の方へと移動する。銃口は、先ほどからピクリとも動いていない。
「ああ……シスター・イリア。残念だよ、君ならばグリンリッジを殺してくれると思っていたのに」
 それは、かつて聞いた言葉。何の疑いもなく、何の余地もなく、ただそうであると告げられた言葉と似ている。その時に、自分は定義されたのだ――ありもしない憎しみによって、実の父を殺すことを”定義”されたのだ。この男に。
 あまりの吐き気に、口元を押さえる。それは強制力、自分の意思にも望みにも関わらず、ただそうであることを強いられるというその違和感。意識だと思っていた無意識が覆される一瞬。そうでなければならないと、かつて自分が思ったのはどうしてだった?
「そう、簡単な話だ。私は君に銃を渡して、魔術で君を拘束した。君がグリンリッジを仕留めるように仕向けた。面白いだろう? 君は自分でそれをしなければならないと思っていながら、実は私にそうさせられていたんだ」
 くすくすと、かつて父を吹き飛ばし、地面に倒れ伏した男と同じような笑みを零す。あまりに邪悪で、あまりに無邪気な。ただ純粋に、それそのものを愉しんでいる。人はそれを外道というのだと、自分はこの時初めて知った。
「勘違いしないでくれよ? 別に私怨があるわけではないし、こういうことが愉しいだけというわけでもない。ただ、それが私の仕事だからね」
「星の雫……か」
 少年の零した言葉に、その神父はぞっとするほどの満面の笑みを返した。だがその言葉に、少女は理解を示すことが出来ない。わけのわからぬままに神父を見上げながら、ギリ、と唇を噛んだ。――本当に、自分は何も知らない。だから、何一つとして護れないままに振り回される。
「星の雫というのはね、過去最大規模と言われた魔術構式のことさ。世界を塗り替える力――神の力。魔術師ならば、必ず一度は誰でも触れてみたいと思う領域。だってそうだろう? そんな力があれば、そこに座る最強の殺し屋だけじゃない、教会全てを相手にしても事足りる」
 そう可笑しそうに笑いながら、男は、視線を自分の背後で血溜まりに沈む、父のもとへと移動させた。そうして、張り付くようなその笑みが、暫時こくな無表情へと変わっていく。
「でもね、それを持ち逃げした魔術師がいたのさ……それが、そこのグリンリッジ・テイラー。別に、生きて聞き出す必要はない。死体の脳から情報を抜き出せば、それで足りるのだから」
 そこまで告げて、にやり、と口元を吊り上げる。それはあまりに酷薄で、それでいて心からの――そう思えるような笑み。
「意外だったと言えば、シスター・イレイニアさ。彼女は私の部下だった……というより、私がそうしたのだがね。何を思ったのか、そこのグリンリッジを庇ったのさ」
 それは、彼女の残した最後の魔術。それは、何度も夢に見た、彼と彼女の最後。父は一度死んで、そして、自分を育てた女に救われた。復讐をと、彼が心に紡いだその言葉が、今もまだ胸に焼きついて離れない。
「ヤツは、グリンリッジの傷を自分に転移させた。グリンリッジは既に死んでいたから、そんなことが上手くいくはずがないと、放っておいたのがマズかった。……まあ、奇跡というヤツなのだろうかね? どのみち、半死半生程度のモノにしかならなかったのだけれど」
 ”モノ”と切り捨てた男の笑みは、しかしそのことにすら気付いていない。それはとうに解っているはずのことだった……この男は、父を人間としてなど見ていない。ただひたすら、そこにあるというだけの存在に過ぎない。だから、こんな簡単なことにも気付いていない。
「父は」
 搾り出した声は、震えてなどいなかった。それは自分ですら意外なことで、そしてそれ以上に意外だったのが、その声にこちらを見下ろした男の、その表情が滑稽なことだった。
 ギリ、と唇を噛む。溢れ出す感情に、意識が沸騰しそうになるのを感じながら、それでも言葉を紡いだ。ただ、世界が、蒼く染まっていく気がした。
「お前に、復讐したかった……!」
 世界が、蒼く、ただ蒼く。果たしてそれは錯覚か……否。踊るような蒼い光に、ただ世界が染まってゆく。世界が、淡い蒼に染められてゆく。それは、ただひたすらに侵食していく感覚。その世界を染める蒼が、自分の体から溢れていることには、とうに気付いている。
 ただ、叫んでいたのかもしれない。それも解らなかった。世界と自分との境界はやがてなくなり、世界自身が自分自身を侵食し、自分自身が世界と同化する。同じものならば、それを変えていくのは容易だろう。――それは、星よりその雫をその身に宿す力。
 隣で、驚愕に顔を歪める少年の姿が見て取れた。いや、見てなどいなかったのかもしれない。もはやあらゆる五感ですら、世界と自分との境界線は取り払われていた。ギギ、と世界が軋んだ音を立てる。それはまるで、扉を開く音に、あるいは歯車の狂う音に似ていた。
「馬鹿な……馬鹿な!」
 男が叫んでいる。引き金を引こうとしているのが解った。その銃口の先には自分がいる……それは、自分単体ではなくなった自分の肉の殻。だがアレが息絶えれば、自分もまた消え去るのは明白だった。
 ギリ、とまた世界が軋む。その瞬間、黒光りするその拳銃は、引き金を引こうとした指ごと消失した。
「が……あ、あああああ!」
 それは悲痛な叫び。あるいは憎悪そのもの。世界によって存在を拒絶された、男の断末魔。
「そうか――そういうことかグリンリッジ! 貴様は……貴様はァ!」
 汚らわしい、と思った。その汚らわしい口で、お前はまだ父の名前を呼ぶのか。それはひたすらに凝縮された憎悪。ただ純粋で一途な殺意が、ゆっくりとその矛先を向ける。
 ――望んでいない痛みを、その背中に背負っていいはずがない。ふと、そんな言葉が胸をよぎった。ならば、望んで受ける痛みは、果たしてその背中に背負っていいのだろうか。人を殺すというその罪を、望むのなら背負っていいのだろうか。きっと、彼は首を横に振るだろう。
 首を振る。逡巡してはならない。この男は殺さねばならないと、そう理性が告げている。だが、憎しみのままに人を殺して、果たして誰かが微笑むのだろうか。……いや、もうそんなことは関係ない。復讐しなければならない。それは当然のことだ。男が憎い、殺したいほどに憎い。それは確かだ。ただ……ただ、その言葉は、あまりに冷たい感触がした。
(私、は……)
 逡巡する一瞬。振り下ろせない手。止まることさえも出来ずに、ただそこに立っていて。
 ……そうして。そっと、自分を抱いた、温かい感触に、ありとあらゆる世界が消え去った。
(……え?)
 何が起きたのか解らなかった。解るのは、ただ自分に触れる、その温かい感触だけで。ただそれだけで、自分は、まるで動けなくなった。
「――ワガママだなんて、解ってる」
 耳元に、苦しげに呟く言葉。その言葉に、胸が、ただ切ない痛みを覚えた。……それはきっと、後悔という言葉。
「それでも、僕は」
 自分を抱きしめた、少年の温もりに。振り払うことも、逃げ出すことも出来ないまま、ただ少女は動けなかった。
 蒼が、薄れてゆく。途切れてゆく接続。世界が、正常に戻っていくのを、彼女は感じていた。惜しいとも、苦しいとも思えない。ただそれは、どこか心地よくて――。
「僕はもう、誰かが後悔してしまうことが、どうしようもなくイヤなんだ」
 それは、あまりに拙い少年の声。解ってはいた、はずだ。少年が、自分が想像するよりも、遥かに苦しくて、重い枷を背負っていることは。
 ああ、と思う。この少年はきっと、その枷を、もう誰にも背負って欲しくなどないのだ。人を殺めるというその咎を、誰よりも人を殺した少年は、きっと誰よりも望んでいない。――それは、本当に。
「ワガママな、ことだな」
 呟く言葉。世界は、接続を終了する。その最後に、少年の腕に抱かれる背中の向こう、憎んでいたはずの男が、走り去るのが見えていた。――きっと大丈夫。うまくいく。何の根拠もなく、少女はそう思った。
 抱きしめられる温もり。長く触れることのなかったそれに、ふと、涙が頬を伝って。
「……何も護れなかった、私は」
 不意に零れる声に、少年は頷いた。
「……護られてばかりだな、本当に」
 そんな呟きに、また少年は頷いて。自分を抱きしめるその腕を、離そうとはしない。
 私は、とだけ呟いて、あとは続かなかった。愛する人を全て失って、それでもなお、こうして誰かの胸にすがりついている自分は、きっとひどく滑稽だろう。だが、と思う。どれだけ滑稽になっても、どれほどの泥を被っても、自分を護ろうとしてくれた人たちがいた。それは、誰かがどれほど滑稽だと笑っても、きっと自分は、それを誇りにし続けることだろう。そういうものなのだ……人間というのは。
 失われた命が、帰ってくることはない。彼らにしてあげられることなど、私には何もない。見つからない。
 ――ただ。この日初めて流した、悲しいだけではない涙は、どこか温かかった。

 はあ、はあ、という荒い息が、夜の街道を疾走していた。
 灯された街灯の下を走るその男の姿は、異様であった。――右の、手首から先が存在していない。それは、まるで元よりそこになかったというかのように、まるで存在していなかった。
(クソが……ッ)
 毒づく。だがそれも、荒い息に混じって、とても言葉にはならなかった。今は、足を止めるわけにはいかない。
(あの女、絶対に……!)
 憎しみに血走るその眼で、白い髪をボサボサに撒き散らしながら疾走するその姿は、もはや常人の装いを逸していた。吐き続ける呪詛は、男を漆黒の魔力で包んでゆく。それは、白い聖服と相まって、ひどくアンバランスに見えた。
 ……と。一瞬、闇が揺れた。かと思うと、男は足を止める――というより、止めざるを得なかった。その首から上を失って、力は行き場をなくして彷徨うしかない。
 どさり。その音は、男の頭部がアスファルトに激突した音だった。その表情は、まるで自分の死を理解してさえいない。
「あーあ」
 それは、その光景にはひどく不似合いな、少年の声。もう一度、ぐらりとだけ闇が歪んだかと思えば、その深い闇の中から、少年がコツリ、と一歩を踏み出した。オレンジ色の髪は、漆黒の闇の中でもよく映えていて、到底闇の中に溶けそうもない。だというのに、その存在感はどこまでも希薄だった。
 少年は、その右手に握るそれを、ブン、と振ったかと思うと、そのまま肩で担ぐ。――強大すぎる蒼の鎌。その形状は、御伽噺の死神が持つソレに酷似していた。
「いっつも、こういう後始末ばっかな、俺」
 軽薄に愚痴るその姿は、いつも通りのものだった。返り血ひとつさえ浴びていない少年は、一度だけ伸びをして、男から背を向けた。
 ――そうして。ようやく、強大な鎌に、首を刈り取られたを理解した胴体が、勢いよく血を噴出させて、地面に倒れた。
 ……これが、辺境都市セメニスで起こった、事件の顛末である。

  - † - † -

 その、小高い丘の上にある場所を訪れたのは、事件が終結を迎えた、二日目のことだった。
 ふと、風が頬を撫でる。草の匂いを運んでゆくそれを胸に吸い込んで、ジャリ、とその場所に一歩を踏み入れた。空に近く、花に囲まれた場所。それはまるで、世界に祝福されたような場所だった。ふとそんなことを思って……そこでようやく、リズは先客の存在に気付いた。
「……イリア」
 ふと呟くように呼んだ名前に、彼女が振り向く。そっと撫でるような風が、その黒い髪を揺らしていた。
 その瞳は凛としていて、いつか出会った頃の弱さも、脆さも感じられない。……強くなったと、そう思う。きっと、それは本人も自覚しているはずだろう。
「来たのか」
「はい」
 それは、ひどく短い会話。しかしそれが、いつの間にか縮まった二人の距離である気がするのは、果たして自分だけなのだろうか。それだけで、彼女はもうこちらから視線を逸らした。ふっとだけ微笑んで、彼女へと並ぶ。
 それは、小さな二つの墓。――何かを救うために、死んでいった二人の……いや、彼女たち三人の場所。そこは、ただそれだけの場所だった。
 ふと訪れる沈黙を拭うように、二人の距離を、優しい風が駆け抜けてゆく。二人を包む沈黙は、しかし、どこか心地よい。
「……感謝しておかなければならないな」
 え? と彼女の顔を見る。その顔は、悲しげではない、穏やかな表情で。
「お前には、助けられてばかりだから」
 思いがけない言葉。それに、思わず言葉が詰まって、すぐにハハ、と笑った。何を笑うことがあるのかと目を丸くする彼女に、リズは口を開く。
「いやさ。あの時の君からしたら、今のセリフは考えられないと思って」
 その言葉に、む、と彼女は顔をしかめる。
「……悪かったとは思っているんだぞ、これでも」
 そんなことは知っていたと、リズは心の中で呟いて、もう一度だけ笑った。彼女は難しい表情をしたが、リズには言ってやるつもりなどない。
 頬を、心地よい風が撫でてゆく。――それは、まるで誰かの手に包まれている感触。彼女もまたそんなことを思ったのか、ふと口を噤んだ。見下ろす、小さな、小さな二つの墓は、まるで世界に祝福されるかのようにそこにあった。
「君を護ったのは、この二人だよ」
 それは彼女にとって、唯一の父と、唯一の母代わり。うん、とだけ彼女は頷いた。
 一人は、彼女のために彼女の父を救い、一人は、彼女のために秘密を守り通した。二人とも、思惑は違っていた。ただそのどちらの想いも、彼女に収束していた。それは彼女とて気付いていて、だからこそ、ここを二人の墓として選んだのだろう。
「……私が、二人のために出来ることは、何なのだろうな」
 ふと零された問いに、苦笑する。
「生きることじゃないか?」
 答えた言葉は、ひどく簡潔だった。けれど、きっとそれしかないと、そう思う。二人ともそれを想って、それのために死んでいったのだから。残された者たちは、きっとそうやって応えていくしかないのだと、そう思う。
 その言葉に、彼女は少しだけこちらを見て、そして同じように苦笑した。
「そうか、そうだな」
 その言葉は、どこまでも簡潔で。流れてゆく風が、まるで包み込むように、二人の頬を撫でていた。……そのまま、どれほどの時間が流れただろう。長く、緩やかな、そんな沈黙。ふとそれを奪ったのは、隣で、ただ佇んでいたはずの、少女の声だった。
 それは、言葉ではない。ただ単純な文字でもない。奏でるように、踊るように、ただそれは世界を蒼く染めてゆく。――歌。それは、どんな歌だろうか。まるで、精霊が踊るような、その淡い蒼の光を、ずっと見つめながら、そんなことを思った。
 星の雫イリア 。それは、二人の護ろうとしたものの名前。世界に祝福され、世界に愛された少女の名前。
 その鎮魂歌レクエイム は、遠く、遠く。空の果てまでも、美しく、蒼く染めていった。