遺言、というにはあまりに短く、そしてあまりにも儚いものだったと思う。 ただひたすらに頬に触れる掌は、あまりに冷たく。血に濡れた頬も、半分しか開かない瞳も、もう生気を宿してなどいなかった。 頬を伝うのは、雨か、涙か。濃く、深い闇も、肌を打つ重いほどの雨音も、痛みまでは掻き消してくれない。 泣かないでと、彼女は言った。自分はただ、その掌を取って、どうしてと繰り返すことしか出来ず。そのまま、ろくな言葉を交わせもしないまま、その命は、静かに目を閉じた。 後悔、悲しみ、憎しみ。そのどれもが心の中で混ざって、ただひたすら泣き声を上げていた。それが自分の声に混じっているのかまでは、解らなかったが。 雨音は、まるで集まるように、より強くなっていく。冷たく、重く、痛いほどに、雫が肌と服とを穿つ。ただそれでも、彼女の掌を、頬から離すことは出来なかった。 瞼が熱くて、もう開けられない。喉が痛くて、もう喋れない。ただ解るのは、胸にある喪失という名前の痛みだけで。 ――星の、雫を。 そう、ぽつりと。胸に穿たれた、まるで穴のようなその痛みが、静かに声を上げる。 瞼を開いた。もう、頬に雫は流れていない。 ――復讐を。 枯れたはずの喉が、動かないはずの唇が。ただ静かに、その言葉の軌跡を辿った。 / 星の雫 フォルグレイ神教連国。宗教という結びつきを持った国々の中心に、その国の名はあった。ヴァルファルディア、数多くの国を飲み込み、強壮な大国にのし上がった帝国の名である。連勝に連勝を重ねたその国が、どうして平和条約になど調印したのかという理由は、今もまだ語られていない。 ともあれ、ヴァルファルディア帝国の片隅に、この場所はあった。というより、その帝国の領土内の片隅にある、辺境都市セメニスのさらに片隅に、だ。辺境ながらに貧富の差は激しく、ことそのスラムの荒みようは、この町に住まぬものにとっては、あまりに非常識であるとさえ言えた。 ――その薄暗く貧相なバーは、そういったスラムの道沿いに存在していた。店には、名前さえ存在しない。光源、と言っていいものはそう多くなく、ゆえに、そこを他のそれよりも、格段に薄暗く感じさせるに足るものだった。 響くのは、三人の男の談笑の声と、それに混じるグラスの音。その場所を酒場、というにはあまりに物々しい。それほどに、異様な空気がそこに立ち込めていた。 テーブルを囲む男達は、どれも筋骨隆々としていて、それでいて目つきも鋭い。一見するだけでも、訳ありと解るような大男たちだった。こんな男たちが出入りしている時点で、もはや一般人の立ち入り禁止を、高らかに宣言しているようなものだ。 そんな光景の、ふと隅に混じる影があった。――まだほんの少年、だがここまでの異様な空気を、まるで何でもないかのように無視して、自然な動作でグラスの中の液体を口に運んでいる。そのさらりとした黒髪は、少年をより漆黒に溶けさせているようにも見えた。 ――と。ぎい、という軋む音に、周囲の音が止まる。それを引き金として、男達の三つの視線が入り口の扉へと収束した。……この宿を訪れる客は少なく、常連以外となると皆無とさえ言っていい。そして、常連たちは決まって、特定の時間にこの宿に足を踏み入れ、それ以外で姿を見ることはない。――この時間帯には、もうこれ以上の来客はないはずだった。 後頭部で束ねた漆黒の髪に、むせ返るような煙草のニオイが絡みついてゆく。扉の先からから、一歩、また一歩と踏み出す少女は、あまりにも正常な光を纏っていた。それは、扉の向こうから漏れる光ばかりではない、髪の先端からつまの先に至るまで、黄金比とも言えるほどに整えられた、天使のような風貌の放つそれだろう。 正常な空気が、タバコとアルコールの充満した空気をかき消すように、一歩ずつ前へと踏み出す。それは、あまりにもこの場所に似つかわしくなく、あまりにも不自然だ。 コツ、という足音が、バーテンのすぐ傍で止まった。そのバーテン、髭面のほっそりとした男が、グラスを磨き続けていた手を止める。閉じられていた瞼が、わずかだけ開いて、少女の瞳を見返した。 「……何か入用かい、嬢ちゃん」 ええ、と静かに少女が答える。抑揚のない、凛とした声もまた、釘付けにされる男達の目線にも、バーテンの低い声にも、物怖じしていない。その瞳は栗の色、それは金になりそこねた琥珀。しかし、その少女は、金のそれよりも眩い輝きを放っていた。 「――星の雫について」 その声は、囁きにさえ似た響きを持って、空気を震わせる。だが、その凛とした声の割に、放たれた言葉はあまりにも現実的で、あまりにも皮肉だった。バーテンの男は少しだけ驚いて見せ、次いでふい、と顔を背ける。その両手には、グラスと、それを拭く布とがあった。 「星の雫、ね。あの、世界三大秘宝とかいう……」 それは、今や誰でも知る、世界で最も美しいとされる石の名であった。空よりも、海よりも深いブルーの奥に宿す、その無数の輝き……それは、まるで散りばめられた星夜のそれ。当然であるが、そんなものを求める者たちならばいくらでもいる。とは言っても無論、俗物的な意味ではあるが。 そこに、目の前の神々しくさえあった少女と、自分たちの住む俗世との接点とを見出したのか、それまで呆然としていた男達が、目を見合わせる。そうして、誰からともなく頷きあった。 まず最初に動いたのは、その少女から最も近い位置に座っていた男だ。筋骨隆々といった大男で、立ち上がると頭二つ以上の身長差が明確になる。その大男が、にやにやと緩む顔を少女に近づけた。 「よう、お嬢ちゃん。何なら、俺たちが教えてやろうか、ン?」 下衆な響きとアルコールの臭いを、多分以上に撒き散らしながら顔を近づける男に、しかし少女は何の反応も示さない。後ろの男達も、嫌な笑みを口元に張り付かせながら、椅子から立ち上がった。 その後も顔を近づけながら、男は少女に話しかけるが、その横顔には何の反応もなかった。恐れに歪むわけでもなければ、怒りに燃えるわけでもない。痺れを切らしたか、男は笑いながら少女の細い腕に手を伸ばす。 「――触るなっ!!」 途端、破裂したような叫び声が、部屋の空気を大きく揺らした。パシン、と男の手を振り払う。そのポニーテールが、激情そのものを宿すように揺れた。その鋭い琥珀色の瞳もまた、男を射るような激しい焔を宿すが、だがそれでも男が止まることはない。むしろ、それを愉しんでいるようにさえ見える。 「やだねえ、触るな、だとよ。そんなに邪険にしなくてもなあ?」 下卑た笑みを浮べながら、振り払われた右手ではない、左手で、少女の腕を掴む。それと同時に、他の二人の男たちが、少女の周囲を取り囲んだ。その少女には、しっかりと捕まれた腕を振り払うだけの力はなく、もしあったとしても、その二人に囲まれていては逃げ場がない。 キッと目を鋭くした少女に、しかし男達は笑みを崩すことはない。それは、自らの絶対有利を確信している証。バーテンはグラスを磨いたまま何もせず、邪魔するものは誰もいない――はずだった。 だが。その男の、少女を捕まえる腕を、逆に捕まえる影があった。漆黒の髪は風に踊ることもなく、その深い紫の瞳もまた揺るがない。その姿は、少女よりも一回り大きく、男よりも一回り小さかった。 「すまないけど」 少年が、小さく声を上げる。そこには、怒りでも憎悪もなく、ただひたすらに紡ぐだけの声。それは、冷たい氷のそれに似ていて。 「これは自分の連れでね。手を離してはもらえないかな」 ギリ、と少年の握る手首が音を立てた。途端、男は顔を歪め、少女の腕を取り落とす。がっ、と男が小さく悲鳴を上げると同時、少年は男の手首を離して、少女のそれを取った。 男が、骨折の痛みに思わずうずくまるのを背後で無視しながら、少年は少女を連れ、出口へと足を運んでいく。 「ちょ、ちょっと……!」 少女の抗議も、少年の足を止めるには至らない。淀みなく動くその足は、躊躇いもなく入り口を踏んだ。 ――と。ふと止まった少年の動きが、わずかに閃いた一瞬、カウンターにコロン、と硬い音が落ちる。それは、銅で作られた数枚のコイン。 「……釣りはいらない」 振り返りもせずにそれだけ告げて、少年と少女は、慌しくもその酒場を後にした。 少女が、強く捕まれたその腕を振り払えたのは、裏路地の出口付近まで辿りついた頃だった。……というのも、少年が溜息をつきながら足を止めたからではあるが。 「……そんなに睨まれても困るんだけどな。僕は別に、君に危害を加えようとしてるわけじゃない」 さすがに痛かったのか、振り払った腕をさすりながら強く睨んでくる少女に、少年は眉間の皺を寄せた。はあ、と溜息を零す。 だが彼女はその言葉に、警戒を解くどころか、さらに強くしたらしかった。目つきはそのままに、ざっ、と一歩後ろに下がる。 「――お前は、何者だ」 凛とした声が、暗い路地に響く。その声は、あくまでも必要以上を語らず、必要以上を許さない。そこに潜む、炎の熱を孕んだ棘は、少女の光輝くような美しさとは相反していた。 「そういう君は?」 少年の問い返しに、少女はさらに目つきを鋭くした。それは、答えないことへの怒りだったのかもしれないし、質問に対する怒りだったのかもしれない。あるいはただ単純に警戒を強めただけかもしれない。だがどのみち、少年にとってはそれが彼女の敵意そのものでしかなかった。 ふう、と溜息を吐いて、もう一度視線を落とす。それはまるで、どこか諦めたような。 「質問したいことなら、僕のほうがたくさんあるさ。どうしてあんなところに来たのか、どうして星の雫を探しているのか、どうして君は懐にそんなものを持っているのか」 その言葉があまりに意外だったか、ぴくり、と少女は肩を震わせる。まるで隠すように、内ポケットに当たる場所を、服の上からぎゅっと押さえた。――だがそんな少女の行動に、少年はもう一度、ふう、と小さく溜息を落とす。 少女の目は、変わらずに少年を睨み続けたままだ。その刺すような視線が辛いというわけでも、痛いというわけでもなかったが、だが幾分か、その警戒の色が薄くなっていたのは救いだと、少年は胸中で呟いた。 「――私は」 ふと、少女の薄紅色の唇が開く。その、小さな呟きのような言葉に、少年は思わず耳を傾けた。 「私は、お前の質問に答えることは出来ない。答えるつもりもない」 その素っ気無い返事は、ある程度予想できたものだったと言える。というよりか、それ以外の答えを、少年は予想できなかった。ただ予想外だったのは、少女の瞳に宿る棘のような熱が、わずかに揺らいだように見えたことだった。 「……助けてもらったことは理解しているし、感謝もしている。だけれど、これ以上私には関わらないで欲しい」 そこまで言って、タン、と少女は踵を返す。少年はその背中に、この日何度目になるかの溜息を吐いた。 「また行って、それでどうする?」 ぴたり、と彼女の足が止まる。少年は、その少女の背中を追いかけるでもなく、ただ呟くように続けた。 「解るよ、情報を集めたいんだろう? 君は理解していると言ったけど、やはりしていないと思うよ。こういう街の裏側にある情報屋は、大抵がああだ。また同じ目に遭って、もし切り抜けられなかったら、その情報自体を集められなくなる。違うかい?」 ピクリ、と彼女の体が震える。その手が、胸元を――懐に潜むその硬い感触を、不安げに、抱くように押さえた。……それはまるで、何かから逃げるような仕草ではないかと、少年は思う。 「君が、ただ私利私欲のために動いているワケじゃない、っていうのは解る。……なんとなくだけどね。でも、せめて今は――」 「何が解る!」 唐突に奔った叫びに、少年は言葉を止めざるを得なかった。まるで、一際の波紋が走った後のように訪れる静寂に、少女は振り向く。――それはあまりに、どうしようもなく儚くて。 「会ったばかりの、それもよく知りもしない人間に、私の何が解ると言うんだ!」 その叫びは激情。まるで、何かを振り払うかのように、何かから逃げるかのように。怒りのままに歩み寄る少女の瞳は、涙に揺れていた。 「――確かに、お前の言う通りになるかもしれない。だが私には、それでも行かなければならない理由がある! 今ここで、足を止めてしまったら、私は……!」 その言葉を、激情を、少年は理解することが出来ない。その理由を察することなど、それこそ出来ようはずもなかった。少年は少女の多くを知らず、そして人の心を読む力は、あまりに人の手に余るものだ。 ――だが、それでも、と。少年は悲しげに眉をひそめる。 「君は帰るべきだ。君が居なくなって、悲しむ誰かが居るのなら」 はっと、少女が少年を見上げる。驚きに満ちたその瞳を、少年の悲しげに揺れる深紫の双眸が、静かに見下ろしていた。風が、数歩ある距離の間を、さっと駆け抜けてゆく。言葉も、想いも、まるで押し流してゆくかのように。――だが、少女の胸に渦巻く何かを、少年に思い描くことは許されず。 彼女は、まるでうな垂れるように俯く。……風が吹き抜けた後の静寂に、少女の肩が震えているのが見えた。 ――泣いているのか、と。少年が、そう少女に手を伸ばそうとした、その瞬間。 ぱあんっ、という破裂するような音に、少年の視界が揺れた。ヒリヒリと疼く熱に、思考が追いついていかない。……それが、彼女に叩かれたゆえのものだと気づいたのは、その頬に、自分の指先が触れた瞬間だった。 呆然と、彼女を見下ろす。ほんのわずかなところまで踏み込んだ、その少女の瞳が、強く少年を睨みつけた。――そうしてまた、その瞳を覗き込んだ少年は、あらゆる言葉を見失った。 「――……」 ただ立ち尽くすだけの少年の横を、少女が駆け抜けてゆく。それを引き止めることも、呼び止めることも出来ずに、ただひたすら、頬を撫でることしか出来なかった。……頬に残る熱の残留は、まだほんのわずかの痛みを残し。ただ立ち尽くす少年の横を、風だけが通り抜けてゆく。 (――泣いてた) それは、燻るような熱の残留。棘のような、ちくりとした痛みが、心を埋め尽くしてゆく。抗いがたく、溺れてゆくような熱の痛み。救いだったのは、彼女が走った方角が、表路地の方向であったことくらいだろうか。 指先が、熱に触れる。――そう言えば、女の人に叩かれたのは初めてだと、そんなことを思った。 - † - † - 執行者。その名について真実を知るものは、はっきりと言えばそう多くない。ただそれが、それそのものの評価そのものに繋がるかといえば、それは是でも否でもあった。 人に曰く、それは死神であると。ただ純粋に人を刈り、魔術を狩るために存在する死神。それは、あながち間違ってはいない。 人に曰く、それは天使であると。世界の秩序と真実の天秤を持つ、断罪の天使。それは、あながち間違っているわけではない。 ただそれでも、彼らを知らぬものたちに、つまるところ大部分の魔術師達にとっては、一笑に付す程度の話でしかない。なぜなら、彼らの実在を確認したものはどこにもおらず、教会が流したただのホラ話だと、彼らは信じて疑わなかった。 だがそれでも。それでも、彼らの存在に怯え続けるものたちもまた、確かに存在している。――それは、大部分の他者にとって、あまりに滑稽に見えた。 「要するにさ、誰が悪いってわけでもねーんだよ。お前だってそう思うだろ?」 はあ、と気のない相槌を打ちながら、黒髪の少年は時計を眺めていた。チクリ、チクリ、と時を刻む針に、どうしようもなく怠惰が湧いてくる。頬の痛みはもう引いていて、とても眠気への抑止力にはなりそうにない。 その部屋は、ただひたすらにそれだけの部屋であった。ソファーが二つ、机がひとつ、窓がひとつに時計がひとつ。ただそれだけしかそこにはない。接客用の部屋なのだから、それほどに何か必要なわけでもないが、さりとて花瓶のひとつくらいはあっても良さそうなものだ。 とりあえずは、ただひたすらに怠惰であった。それは、ソファーの隣に座るオレンジ頭の少年も同じなのだろう、先ほどから愚痴とも嫌味ともつかない言葉を吐き出し続けていた。それはいつの間にか、ついこの間、神官学校で起きた事件にまで移行している。 「第一にしてさあ、あんなとこに洗濯物置いとく方がわりーんだよ。それが何? 何で俺が下着泥棒とか言われるワケ?」 「……多分、前科があるからじゃないかな」 単なる自業自得だ――という言葉は飲み込んで、適当な返事を返す。日頃から似たようなことばかりしている男に、今更味方になってやれる気にはなれなかった。というか、なったらこちらの身が危うい。 「前科ってもさ、シィねえの着替えを覗いただけだって。リズにだってあるだろ」 覗いてなんていないよ、と、リズと呼ばれた少年は心の中で溜息を吐く。――正直なところ、これ以上話を広げたくはなかった。 ……彼ら、リズとスイの両名が訪れているのは、街の一角に位置する、小さな教会の一室であった。小さな、と言っても、それは他教会に較べての話で、一般的な建造物に比較するなら、それなりに巨大な建造物と言っていいだろう。それほどに、教会というものは各地に絶大な干渉力を有しているのだ。 リズは、はあ、と胸元の赤と銀の十字架を手で弄ぶ。これは騎士軍の内部でも、ほんの一部のみが携帯を許された身分証のようなものだ。 「……遅い」 ぽつり、と呟く。それは、隣の彼の耳には入らなかったらしい。相変わらず無駄な喋りを続けていて、いつの間にやら話題は二週間前にまで遡っているらしい。ただゆっくりと流れていくだけの時間を、恨めしく思いながらも、小さく溜息を吐いた。――彼らがこの部屋に入ってから、その短針は既に二つの数字を刻み終えている。 がちゃり、と扉が開く音に、思わずリズは姿勢を糺し、スイの口もぴたりと止まる。 部屋に流れる沈黙の中に、その足音を踏み入れたのは、白い聖服に身を包んだ、初老の神父の姿であった。線の細い、といえば語弊があるかもしれないが、ひょろりとした痩身の男で、柔和そうな、しかし媚びないような微笑をたたえている。そのほとんどが白髪となったその髪は、皮肉にも、ひどく彼に似合っていた。 「ヒュイスマン司教」 カタリ、と立ち上がって一礼する。その隣で、スイもそれに倣った。礼儀作法を完璧に追随するその動作は、先ほどまでの会話の一切を感じさせない。しかし、それはあくまでも当然のことで、特に疑問はなかった。 そんな二人に、司教と呼ばれたその初老の男は、遠慮深そうに手を振る。その表情には苦笑が浮んでいた。 「いや、頭など下げられては困ります。私はこんな辺境に飛ばされた、しがない一神父でしかありませんし」 「そんなことはありません、神父さま」 その反論は、少年たちのものではなかった。開け放たれた扉の向こう、少女の美しい声のもの。ぴくり、とリズの肩が跳ね上がる。それを自覚しながら、リズは恐る恐る顔を上げた。――そこにあったのは、シスターの服装に身を包む、あまりに美しい微笑をたたえる少女。その端正な顔立ちを、青を基調とした聖服が、より神聖なものとして際立たせていた。 「神父さまは、十分過ぎるほどにやっております。少なくとも、ここに住む人々はそれに――」 ぴたり、とそこで言葉が途切れた。……その理由も解ってはいる。その少女の琥珀の瞳が、しっかりとこちらを捉えていた。後ろで束ねていた黒髪は、今は下ろされていて、依然とはどこか違った印象を受ける。違った印象……というなら、口調そのものが全く違うのだが。だがそれでも、彼女の纏う凛とした空気は、まず間違いなく先日の少女と同じものだった。 彼女は、その微笑んでいた姿勢のまま、唖然と口を広げていた。何かを言わんと口を動かすが、うまく言葉が見つからないらしい。――それは自分とて同じで、多分似たような顔をしているのだと思う。 「――ああ、紹介がまだでしたね。……イリアさん」 その言葉に、ようやく正気を取り戻したのか、彼女は姿勢を糺す。はい、と答えた声がどこか上ずって聞こえた。そんな彼女を掌で示しながら、その初老の神父は笑顔で言葉を続ける。 「彼女はイリア・ティザード。先日お知らせ致しました、件の者です」 紹介された少女は、よろしくお願いします、と礼儀作法のままに頭を下げる。だが、帰ってきた瞳を一瞬こちらに向けて、冷たい視線を注いでいくことも忘れていない。……それも、自分以外の誰にも気付かれないように。 呆然と立ち尽くす自分の横で、静かにもう一度頭を下げるスイの姿があった。静かな、先ほどとは全く違う声音で、それに返答する。 「十字騎士軍第七師団旗下、スェイ・サウスグリーニッジ司聖です。スイ、と呼んでいただければ。この度の歓迎、痛み入ります」 その慇懃な態度に、神父は微笑みを返し、隣の少女もそれに倣った。その二人の仕草にようやくはっとして、リズも頭を下げる。――といっても、それは礼儀作法を完璧に追随できたというものではなかったが。 「同じく十字騎士軍第七師団所属、リウス・グレイです。リズと、皆からはそう呼ばれています。……今回のこと、よろしくお願いしたい」 顔を上げた時の微笑に、果たして違和感はなかったか。それを聞かれると、リズにはとても自信がない。ただ、一瞬だけ合ってすぐに逸らされた少女の視線に、痛い溜息を飲み込むしかなかった。 その後、神事が残っているとかで、初老の神父はその部屋を後にした。その背中を見送りながら、背中に流れる冷や汗を、リズは自覚していた。――何と言えばいいか、空気が、この上なく冷たい。それも主に左正面、恐らくは少女が立っている位置から、寒風が吹き込んでくる。 (……参ったな) 思わず頬を掻く。正直、どう声を掛ければいいのかわからなかったし、そもそも声を掛けていいのかどうかすら解らなかった。まさか、どうして口調が違うのか、などと問えるはずもなく。空気は針のように冷たく、リズの肌を容赦なく突き刺してくる。 そろり、と少女の方を向く。と、氷のごとく冷えた剣先のような鋭い視線を叩きつけられて、どうしようもなく視線を彷徨わせるしかない。 「……おーい。そろそろ話の続き、いいかな」 横からの友人の声に、はい、とイリアは愛想よく微笑む。背中に流れる冷や汗が三倍は増した。――女は怖い。そんなことは、よくよく知ってはいるはずなのだが。ともあれ、その友人の言葉どおり、今は必要なことをやるべきだろう。リズはそう一人で納得しつつ、静かにソファーに腰を下ろした。 「とりあえず、報告にあったことを整理させてもらっていいかな?」 ええ、と少女は頷く。……ちなみに、こちらとは全く視線を合わそうとしていない。まあ、それはそれで気楽ではあるのだが。リズは、隣に座る友人に視線で催促し、スイはそれを頷くことで返した。 「……報告では、この教会で殺人が――それも魔術を用いた殺人があったとか」 「はい」 凛と断言する彼女の顔には、しかし苦渋の色が浮んでいる。――それだけに、それがどれほどの惨状であったかは、容易に想像できた。 魔術による殺人、および暴行、というのは固く禁じられている。というのも、それは三十年前に結ばれた十字協定に起因していた。――事実上の、十字教会と秘術教団の和平条約。それまで、幾度となく対立と衝突を繰り返してきた両者にとって、それはあまりに大きな一歩であった。 魔術師、というのはそもそも、伝承に頼るならば千年近く前より存在していた、世界の理を操るものたちである。世界を解き明かさんとする彼らの探究心に限りはなく、そして見境もない。歴史の影で数々の人体実験を繰り返した魔術師たちと、民衆を護るべきとし存在してきた十字教団の対立は、あくまでも当然な流れであった。そして、両者の力は長く拮抗し、数々の戦争を繰り返し――ついに、魔術師の統括組織である秘術教団と、十字教会との和平条約の締結に至ったのである。 だが一方で、未だ魔術師による暴力は終わっていなかった。それほどに、人体を用いる実験というのは効率がよく、また人を害さずに細々と行う研究というのは、ひどく効率が悪い。それゆえに、自分たちのようなモノが、まだ存在している。 「その時の状況を、詳しくお聞かせ願えませんか?」 「……ええ」 彼女の表情に浮かぶ苦渋は、より強いものとなっていた。……魔術による殺人は、あまりに残酷だ。時に血を撒き散らし、内臓さえ散乱し――あるいは、それさえ許されないこともある。その惨状が、より近親のものであるならば、悲しみや苦しみは相当なものだろう。 ふう、とイリアは溜息を落とした。そこに含まれるのは、悲しみか、それとも後悔か。 「シスター・イレイニアは……幼い頃に捨てられた、私の母代わりでもありました」 ぽつり、と漏らすように少女が言葉を告げる。その声は、まるで子守唄のそれに似ている。少女の瞳は、悲しげな光に揺れていた。 孤児というのは、そう珍しいものではない。というのも、家計の問題もあるが、それ以上に多いのが、幼くして魔術の才覚を見せることであった。魔術師が忌み嫌われるこの時代に於いて、その子供もまた忌み嫌われるのは、確かに当然な流れでもあるのかもしれない。そういう子供達を保護することもまた、教会の背負う役目のひとつであった。 「誰にでも分け隔てなく優しく、誰もを分け隔てなく愛する人で……私の誇りだった」 記憶を辿るその言葉に、彼女の肩が震えた。俯く彼女の膝の上で、きっと握られた拳は震えているのだろう。 泣いているのではないか――いつかと同じ、そんな思いが胸によぎる。だがそれでも、立ち尽くすしかなかった。何もできずにいる自分が恨めしくさえあり、それはまるで、いつかと同じ……。 「つい、二日前のことです。彼女は、血を撒き散らして倒れていました。――それを最初に見つけたのは私で、看取ったのも私です」 決然と顔を上げた彼女の顔に、涙はない。だが、その瞳に宿る激情が、それが無痛ではないことを告げていた。――だが、疑問はある。隣の友人を見ると、どうやらそれは同じであったらしい。視線が合って、そしてどちらともなく頷きあった。それは、ここに来る以前からあった疑問で、ここに来てようやく確定した疑問である。先に口を開いたのはスイのほうだった……が、その疑問を口に出すことはしない。 「事前に提出された血液からは、術素が発見されました。魔術師による殺害は疑いようもありません。――心当たりはありますか?」 その言葉に、少女の琥珀の瞳が震えた気がした。だが、それはほんの一瞬のことで、スイも気付かなかったらしく、ただ答えを待っている。……もう一度見つめた、毅然と顔を上げる少女の表情からは、やはり何も読み取れなかった。 「心当たりは……あります。数日前から、この教会に出入りしていた魔術師の男が、一人――」 「怨恨ですか?」 自分の言葉に、一瞬だけ険しい視線をこちらに向ける。何と言うか、そろそろ慣れてきた自分に驚いてしまう。しばらくもせず、いいえ、と少女は首を振った。それは強い調子を含んでいて、それだけにこちらに棘が向けられている気がしてならない。 「それはありえません。シスター・イレイニアは、たとえそれが魔術師であっても、人に恨まれることをするはずがない」 きっぱりと断言するその言葉に、迷いも不安も見当たらない。恐らく、そこに嘘はないだろう。だが、そうであるならば、また新しい疑問が湧いてくる。 「……では、どうして? どうして、君はその魔術師を犯人だと?」 リズの言葉に、それは、とイリアは言葉を途切る。眉の端が、ぴくりと上がるのが見えた。話すべきか否か逡巡しているのだろう、わずかに視線を彷徨わせた後、強くこちらを睨みつけてきた。 「話せないことの、ひとつやふたつはあります。ご理解いただければと思うのですが」 それだけ告げて、彼女はソファーから立ち上がった。優雅な仕草ではあるが、その身に纏う棘のような空気は、何一つとして薄れていない。 「お部屋のご用意をしてあります。私はこれから用がありますので、部屋を出たところにいるシスター・アリネルに仰ってください」 手を胸元に組んで、礼儀正しく一礼する。それを礼で返したところで、やはり空気は一向に柔らかくならない。こういうのを、確か修羅場と言うのではないかと、そんな場違いなことを考えたりした。 バタン、と閉められる扉を、ただ唖然と見つめる。横から、一体何をしたのかと問い詰めてくる友人の声にも、リズは答えを返すことなど出来なかった。 幸運であったことといえば、案内役を引き受けてくれたシスター・アリネルが、随分と陽気な人物であったということだった。ここ一ヶ月分とも思えるほどの疲労を、先ほどの数十分間で蓄積させたリズにとっては、まさに天の恵みとさえ言える。 また、もうひとつ幸運を挙げるとするならば、そのシスター・アリネルというのが随分と良心的な人物であったということだろう。 「いやー、あの子ってば、昔から潔癖症の男嫌いでねえ」 シスター・アリネルは、少し小柄な、人好きのする笑みを浮かべる中年の女性であった。シスター、というよりはむしろ主婦でもやっていそうな人物ではあるが、リズたちにとっては、とても助かる人物であったと言える。 先ほどの聴取――といえるかどうかは解らないが――では見えてこなかった、シスター・イレイニアという人物その人、そしてこの土地の魔術師たちの動向など。そう多くを語られたわけではなかったが、それでも十分すぎるほどに色んなことをはっきりとさせることが出来た。最後に、ドアの前で一礼して、リズたちは部屋の中へと足を踏み入れた。 客室、だろう。ベッドが四つあり、それなりに広い。二人で使うには十分すぎるほどの広さではあるし、これほどの部屋を当てられたということは、やはり期待されていると見ていいのだろう。はあ、とリズは肩を落とした。――こういった期待を掛けられることを、慣れていないわけではないが、好ましいわけでもない。 「んじゃ、状況整理から始めるか」 ポン、とベッドのひとつに荷物を放り投げたスイが、そんな言葉を投げかけてくる。それに、思わずリズは目を見張った。 「……何だか、今日は随分とマジメだね」 「俺はいつもマジメだろうが」 眉間にシワを作りながら答えてくるスイに、ほう、とリズは顎に手を当てる。 「本当のところは?」 「実は、今週末にはデートがあってな」 はっはっは、と笑い混じりに即答する彼の言葉には、やっぱり、と溜息混じりに肩を落とした。それはある程度予測していたことではあったのだが。ともあれ、状況を整理しておくことには賛成で、リズもまたベッドのひとつに鞄を落とす。 「ともかく、概ねは説明されたことで間違いないんだと思う。シスター・イレイニアの死因は魔術、それも数日前から出入りしていた魔術師がいる。まあ、六割は黒に近いと思う」 「そだな。問題は……」 ――問題は、ふたつ。ひとつは、殺害の動機も、状況も、全く見えてこないということ。 魔術によって殺されたことは間違いなく、それに件の魔術師の男が関わっていることは間違いない。ただ、どうしてその男が魔術師だと判ったのか――魔術師、こと魔術による殺人を起こすような連中というのは、基本的に自分の正体を明かそうとはしない。それは、たとえ相当の実力者であっても、見分けることは容易ではない。そして、もうひとつは……。 「どうして、シスター・イレイニアの遺体が残っているのか、か」 スイの言葉に、リズもまた頷いた。それはこちらに来る前、報告を受けた時から、ずっとあった疑問のひとつである。 魔術師は、確かに残酷な殺し方をするかもしれないが、理由もなく殺しはしない。そして、理由あって殺したのであれば、かつそれが怨恨でないと言うのならば、絶対にその 別に、彼女の言葉を信じていないわけではなかった。シスター・イレイニアという人物像については、事前の調査に於いても、そして教会の中で聞いた話の中でも、一貫した人物像を保っていたからだ。 (……もっと、裏の顔がある?) そう考えるのは簡単だが、しかしそうさせないような異様性が、そこにはあった。 ――そして、もう一つの問題。それが、彼女があからさまに何かを隠しているということ。 最後の問いに関してもそうだし、彼女が星の雫を探す理由も、全く見当がつかない。だがしかし、どこかで 「ともあれ、その魔術師が、事件に関わっているらしいことは明白かな」 しばらくは、それの捜索に当たるべきだろう。二人ともその意見に到達し、その捜索にはスイが当たることになった。こういった類のスキルは、彼の方が一枚も二枚も上手だ。 「んじゃあ、あの娘から情報聞き出すの、お前の役目な」 「……無理だって、絶対」 こちらを指差して宣言してくるその言葉に、リズは深く溜息を落とした。しかしそれを聞いてはいないらしく、そそくさと出発の準備を始めている。……鼻歌まで漏れ出していたり。こうなったら、どんな説得も聞かないということを、長年の付き合いからリズは知っていた。 (……何だか、僕の周りってこんなのばっかりだな) ふと浮かんだ義理の母の顔に、またリズは溜息を落とす。 ――ともあれ。どうやら、随分とめんどくさい任務になりそうなことは、おおむね間違いないらしかった。 - † - † - 鏡に映った、無力という名前の重力に縛られた自分の顔を、ただ見つめていた。 窓の外に流れる、焦がれるように、風が木々を撫でる音。だが、その風も、この心の穴まで辿りついてくれない。埋めてくれない。――その痛みを、果たして何と呼べばいいのだったか、彼女は忘れていた。 忘れよう、と思っていたわけではない。だが一方で、忘れてはならないとも思っていなかったことを、ただひたすらに痛感する。果たしてその痛みは、あの時の痛みと同じものであったのか。それさえ、自分にはもうわからない。 ポツリ、と頬を撫でる雫が顎を滑って、水面に波紋を寄せた。幾重にも震えるそれは、しかし一滴分でしかなく。 洗ったばかりの顔を、拭いてさえいないことを思い出す。けれど、拭く気にもなれなかった――頬に触れる。これは、涙ではない。きっと、そのはず。 どうして今更、と思う。どうして今更、こんなにも胸が痛むのか。……ふと、苦い顔をした黒髪の少年が思い浮かぶ。そして、振り払った。 胸の痛み。どこまでも纏わりつくような喪失感。あの日の決意は、果たしてどこに消えてしまったのか。イリア・ティザードという少女の、ほんのわずかでもあったはずの強さは、果たしてどこに消えてしまったのか。 そんなものは、探したところで見当たるはずもない。自分自身を自分自身で確認できないように、その行方に指先は届かない。 ずきり、と胸が痛んだ。思い浮かぶのは、あの少年の顔。ただひたすらに、哀しく――それは、思い浮かべてはならない。イリアは強く、痛くなるほどに自制した。これ以上は、きっと脆くなる。 あの少年の、何が悪いというわけではない。ただ、あれは悪いものだ。あの少年の纏う何かが、ただひたすらに自分を責めている。そのイメージは、まるでシスター・イレイニアの死が持つそれに似ていた。 「――……」 彼女の死に顔は、あまりにも安らかだったと思う。とうに冷たくなった骸を抱き上げた時に、涙を流せなかった理由はそれだった。 「シスター・イリア?」 唐突に響いた背後の声に、びくんっ、と肩が跳ねた。顔を上げると、その鏡にはドアを開けてこちらを見つめている、黒髪の少年の顔があった。 ――胸が痛い。それは、死のイメージに似ている。 ひたすら頭に木霊する言葉を、タオルに顔を押し付けることで誤魔化した。 「……何か御用ですか、グレイ神父」 言葉が素っ気無くなる。もともと、男の人と会話を交わすことには慣れていなかったが、この少年は別だ。事務的な笑顔さえ、見せたくない。ほんのわずかでも心を許したら、きっと何か悪いことが起きる。少年の纏う黒の空気が、ただひたすらにその危険性を告げていた。 はは、と少年が苦笑する。それを片目で見ながら、どうしようもなく苛立つ自分が居た。――どうして、この男は笑えるのだ? 意味もなく湧いた疑問に、心が沸騰するほどに苛立ってしまう。それこそ、意味も解らず。 「そのグレイ神父、っていうのはやめてくれないかな? なんていうかこう……むず痒いっていうかさ。それに――」 その苦い笑みに、そっと溜息が混じる。表情を落としながら、片目だけを上げて、申し訳なさそうにこちらを見上げていた。 「……なんていうか、もっと普通に会話して欲しい、というか。出会いがアレだったから……凄く違和感があって」 鏡の中の自分が、ひくりと片眉を上げる。今の自分は、こんな不愉快そうな顔をしているのか――そうは思いながら、事実不愉快ではあった。それではまるで、自分が猫を被っているようではないか。ただ単に礼節を尽くしているだけだというのに。 「――別に猫を被っているわけじゃない。ただ単純に、礼儀の通りにやっているだけ。司聖といえば、私よりもずっと偉いだろう?」 心のままを告げると、ポリポリとその頬を掻く彼の仕草が、鏡に映った。確か以前もやっていた気がするが、ひょっとすれば癖のひとつなのかもしれない。だからと言って、別に注意してやる気にもなれないが。 司聖、という官位は、単純に言えば十字騎士軍に所属する騎士たちの持つものだった。通常は司教の下、聖公長の上に位置する。聖公見習いの自分にとっては、単純計算で三つ上だ。それが万人の平和と平等とを説く十字教会のものとはいえ、上下の隔たりは厳然と存在している。 タオルで顔を拭きながら、踵を返す。だが、彼の横を通りすぎようとする一瞬、ぽつりとだけ、小さく彼が呟いた。 「――復讐」 ぴたり、と足を止める。タオルを持つ手が、自分でも驚くほどに震えたのが分かった。それは一瞬だけのもので、すぐに収まりはしたが。 ……復讐。耳の内で、ただひたすら声が木霊する。それは、幾度となく繰り返してきたことではあった。今ではない、どこかで。 「そんなことを考えてはいませんか?」 ――考えてなどいない。だから、それ以上は言わないでくれ。 叫ぶようなその声は、喉の奥に詰まるようにして、泡沫のように消えていった。それは、痛みさえも伴って。それはまるで、ガラスを一枚隔てた向こうにある、ざわりとした温い感触。 タン、と一歩を踏み出せばそれで終わりだった。まるで何かを振り切るように早足で、その場所を立ち去る。 ……気がつけば、自分の周りには誰の気配も見当たらなかった。 二日目、彼が帰宅――と言っても借り宿だが――したのは、夜も更けた頃だった。それにリズが気付いたのは、ただ単なる偶然、目が冴えて眠れなかったというだけのことに過ぎない。こういう時は、何か嫌なことが起きるものだが。 「どうだった、今日は?」 帰ってくるなりベッドに身を投げ出す彼に、言葉を投げる。スイは、どうやら精魂尽き果てたらしく、手を「ダメだった」という形に振るだけで、言葉が返ってくることはない。数秒としない内に、寝息さえ立て始めた。 (……早いなあ) 思わず感心してしまう。どうやら、随分とマジメに仕事をしているらしい。いつもなら、街角でナンパの片手間にといった形なのだが、三日後の週末にはどうしても帰りたいのか、必死になっているのかもしれない。今回は本気なのかなと、女癖、というよりはナンパ癖だけはどうしても直らない友人に、思わず苦笑してしまう。美人にすぐに目移りしてしまう割に、以外に純情な辺りが、別れた女性に彼が難癖をつけられない理由なのかもしれない。 ――理由。そんなものは、いつだってくだらないものだ。思わず反芻してしまう言葉に、やはり苦笑するしかなかった。その言葉を上手く笑えるようになったのは、果たしていつのことだったろうか。 ……と。部屋の外に気配がして、リズは思わず神経を尖らせた。小さな、まるで床を擦るような足音は、お粗末な程度の忍び足だ。必死に消そうとするそれは、逆に不自然で不定期な足音を目立たせていた。 (素人、だな。少なくとも、魔術師じゃない?) 魔術師の足音は聞こえない。彼らは、それさえも消してしまう力を持つのだから、聞こえるはずがない。とすれば、今外を出歩いているのは人間だろう。ふと、時計を見上げる。その針は、丁度深夜二時の近くを指したところだった。 こんな真夜中に出かける人物を、リズは一人しか知らない。そしてそれ以外の誰かならば、これはこれで問題だ。トン、とベッドから飛び降りる。そのまま、足音を立てないように、部屋の外へと移動した。淀みのない動きには、衣擦れの音ひとつさえも付属しない。 ス、と足音に近寄っていく。それに追いついたのは、教会の門の前だった。カンテラひとつ持たないまま、外へと足を運ぶ少女の姿。漆黒の闇の中に溶けきれないその姿は、その闇を振り払うかのように足を運んでいた。後ろに束ねた艶やかな黒い髪は、漆黒の闇に溶けて、その紅いリボンの色を残すのみとなっている。 (――イリア) やはり、と声には出さずに呟く。そして同時に、声を掛けるかどうかを迷った。こんな時間帯に、女性の一人歩きというのはあまりに危険だ。だが、そんな危険も彼女は承知の上だろう。承知の上で、なお行かなければならない場所がある――。 結局のところ、リズが選んだのは、彼女の後を尾けることだった。が、それは何のことはない、ただ単純に声をどうすべきかを延々と悩んでいたに過ぎず、最後まで声を掛けられなかったというだけのことなのだが。 彼女が足を運んだのは、街の一角にある裏路地であった。だが驚くべきであったのは、彼女がそれを見つけられたことである。その入り口は、どの方角から見ても死角になっていて、しかも自然に存在していた。ただこの辺りを歩いただけでは、とても見つけることなど出来ないだろう。 そこは、ひどい漆黒の闇に包まれていた。夜目が効くとかいうレベルではなく、ただひたすらに、黒いだけの闇が続いている。その中を、彼女は危なげな足取りもなく歩いていた。 (魔術結界?) しかも人の意識に介入してくるような、それなりの規模のものである。しかも、その結界が彼女を受け入れている? 逡巡する。入るべきか、否か。罠である可能性は十分にあり、そして彼女に対する罠という可能性もまた、十分に考えられた。コクン、と唾を飲む。結局のところ、行くしかないのだ。 (たとえ罠でも、叩き潰すだけだ) キ、と右の掌の筋肉が音を立てる。そうできるだけの自信は、十分にあった。 漆黒の闇の中に、足を踏み出す。纏わりつくような重い感触を、集中力だけで掻き消す。前方には、彼女の姿が見えた。魔術耐性がないのなら、この中では足元すら見えないはずなのだが、それでもその背中に危うさはない。操られている様子もなかった。 ゆっくりと、彼女の後を追う。その路地は一本道で、曲がり角の一つも存在していないが、真実それすらもわからない。結界というのはそういうものだ。情報を狂わされないように集中しながら、彼女の後を追う。 路地の奥。行き止まりには、一人の男が、その腰を下ろしていた。深いブロンドの髪は、どこか汚れている。その顔には、どれほどの修羅場を潜り抜けてきたのか、深いシワが幾重にも刻まれていた。 コツリ、と少女がその男の手前で足を止める。その男が纏う空気、それは魔術師ということの証明に違いなく――だがその空気は、憔悴と言っていいほどに重い空気を含んでいた。アレでは、まるで……そう、死ぬ一歩手前だ。 さあ、と天井の月が、その少女と男とを照らした。幻想的なその光の帯に、リズは、この結界がもう消えかかっていることに気付く。 男と、イリアとの間には、まるで介入を拒むような、そんな空気があった。男の憔悴した、金にも似た瞳が少女を見上げ、そしてまたその瞳を、少女は悲しげに見下ろしている。状況を把握しえないまま、リズは、一言一句を逃さぬように、耳をそばだてた。 ――そうして。次の瞬間、少女の言葉にその目を見張ることになる。 「……父さん」 それは、あまりに哀しげで、あまりに痛みを含んだ、言葉だった。 彼女がどうして孤児となったか。そのことを知るものは、決して多くはない。シスター・イレイニアは、そのことを知る数少ない人物であった。そしてそれは、イリア・スェズエル・テイラーという、消しきれぬ過去と彼女自身とを繋ぎとめていた、数少ない楔であったとも言える。 彼女が生まれたのは、ごくごく平凡な家庭であった。愛し合う夫婦と、そのたった一人の娘と。彼女は両親に愛され、両親を彼女は愛していた。ただそれだけの、あまりに凡庸な幸せが打ち壊されたのは、彼女が四歳を過ぎた頃であった。 魔術師による、魔術師の告発。かつての友によって、彼女の父は告発された。そのことを、母はもとより知っていたが、周囲の誰もを驚かせることとなる。それは彼女にとって理解が出来ない、あまりに理不尽なことであった。 ほどなくして、引き止める女の声も空しく、その男は追放される。魔術師と人間との婚姻は、秘術教団によって固く禁じられていた。……ほどなくして、魔術師の血を色濃く受け継ぐその子供も、祖父母の手によって母親から引き離されることになる。 彼女が、イレイニア・ティザードの手によって拾われたのは、あくまでも偶然そのものであった。生きていく術さえも見つけられないままの彼女に、たまたま通りがかっただけの心優しいシスターが手を伸ばした。ただそれだけのことだ。 そうして、十数年という時間を、その優しいシスターの下で過ごした彼女に、訪れる人影があった。彼女の父、グリンリッジ・テイラーである。 「……父さん」 一度だけ、呼ぶ名前。呟くような言葉に、憔悴しきった彼の、自分と同じ琥珀色の瞳が揺れた。頬に刻まれた歪な傷痕が、その男の存在感をより色濃くしている。……何を続ければいいのか、解らなかった。力なく自分を見上げる父に、憎むべきはずの男に、何を言えばいいのかが解らなかった。 「――イリア」 しわがれた声。痛みを搾り出すように、まるで最後の何かを出し尽くすように。恐らく声を出すだけで、喉に痛みが奔るのだろう。憔悴の証であるのか、その黒が混じるだけになった白く長い髪が、わずかに風に揺れる。 喉がカラカラで、声が出ない。激痛にまみれながらも、彼もまたこんな気持ちだったのだろうかと、そんなことを思った。 「どうして……どうして、殺した?」 搾り出せた言葉は、その程度のものにしか過ぎない。言いたいことも、言えないことも、何ひとつとして語っていない。ただひたすら搾り出すだけの声に、どれほどの意味がある? 「星の雫の、ためだ」 しわがれた答えは、あまりに簡潔だった。何度も放たれた問い、何度も放たれた言葉。幾度となくここを訪れ、幾度となく繰り返された会話。どれほどの時間が流れても、回数を重ねても、答えだけは変わらなかった。 がちゃり、と懐の感触に触れる。その感触は、思っていたよりもずっと冷たく、ずっと残酷で。鋼の冷たさは、つまるところ死のイメージに直結する。それは、黒光りする漆黒の具現。どこまでも深い銃口は、はっきりと男の眉間に向けられていた。 男の琥珀色の視線は、やや彷徨うように、イリアとその銃口とを往復する。だがやがて、何かを悟ったかのように、ふいに口元を笑みで歪めた。白くなった長い髪と相まって、それは、まるで狂気に満ちているようにさえ見える。頬の傷が、口の動きに合わせてふと形を歪めた。 「俺を殺すか?」 その言葉には、ただの呟きに聞こえた。怒りでもなく、憎悪でもなく、悲しみでもなく、喜びでもなく、ただ告げるだけの囁き。 「――っ!!」 哀しかった。辛かった。逃げ出したかった。この地獄のような連鎖から、ただ逃げ出したかった。押し寄せる痛みに身を任せれば、あとは簡単だ。その引き金に指をかけて、引く――ほんの数瞬、ただそれだけでしかない。 バアンッ! という破裂音。鼻を突くような火薬のニオイ。それは、意識までも白く染めて……。 だが。ギイン、という音に阻まれた弾道は、ただそれだけで砕けて散った。はっと、イリアは目を見張る。それは男も同様だったようで、黒い掌の向こう側で、驚愕に歪められた男の表情があった。 ――掌。死の直線を阻んだモノは、ただそれだけでしかなかった。銀の光の中でも、ひときわ漆黒の闇を吸ったような、そんな黒。そこには、一滴たりとも血の赤はない。だがそれでも、銃弾はまず間違いなく、その黒に阻まれたはずであった。 「……あ」 思わず、ちっぽけな声が漏れる。そのまま、抜けるように、腰が地面に落ちた。 夜の風に揺れる、漆黒の髪。銀と黒のその独特な服装は、 その黒い右手を、少年は胸元に引き寄せる。そしてそれが、いつしか肌の色を取り戻していることに、ようやく気付いた。 「貴様は……」 背後、そのしわがれた男の声に、少年はわずかだけ振り向く。胸元の紅い十字架が、ただ夜の闇に映えていた。だがそれも一瞬のことで、少年はすぐに、正面――こちらへと視線を戻してくる。その瞳は、まるで泣いているのかと思えるほどに、哀しさで揺れていた。 コツリ、コツリという足音、雨音のようにさえ思えるそれが、自分のほんのすぐ手前まで来て、止まった。そうして、少年が屈んでからようやく、自分の手から黒い金属の光沢が失われていることに気付いた。 少年が、ソレを拾い上げる。つい最近、幸運にも、偶然にも手に入れることの出来たもの。拳銃――それは、協定法によって個人所持が固く禁じられているはずの、 「こんなものを、どこで……」 そこで言葉を途切って、彼は首を振る。哀しげに目を閉じて、その睫毛がほんの少しだけ震えていた。 ああ――と、ようやく気付く。そうか、自分は、父を殺そうとしていたのか。殺そうとして、だが、彼は死ななかった。だがそれは結果だけのことで、自分の持っていた凶器から、彼へと死が放たれたことは違いない。それは、死ぬとか死なないとかの問題ではなく、明らかに自分はあと少しで彼を殺していた。 「……はは」 こみ上げる笑いを、抑えることさえ出来なかった。それは、どうしようもない無力。自分の中の殺意に抗えない、ちっぽけな自分。 これでは同じではないか? 彼女を、愛する人を失ったときの自分と、まるで同じ。これは復讐ですらない、確信すらなく相手を殺す不条理。果たしてそれも、自分を愛してやってくれたことだからと、彼女は笑って許してくれるのだろうか。大切な人を護れずに、大切であった人をこの手で殺す自分を。 「復讐が、間違っているとは言いません」 ぽつり、と少年が呟くように言葉を零す。あまりに哀しげな、そんな言葉。それは果たして、誰に向かう言葉なのか? 「そんなことを死んだ人は望んでいないだとか、そんなことをしても無意味だとか、貴方は幸せにはなれないだとか、そんなことも言いません。そんなことは誰でも解っていることだし、そんな綺麗事で止まれるようなモノであるはずがない」 ポツ、と掌に穿つ雫がひとつ。泣いているのか、と少年を見上げても、そうではなかった。ポツリ、とまたひとつ、少年の向こう側、空から冷たい雫が頬に落ちた。それは、漆黒の空から落ちる、少年の涙のようで。 ふと思う。止まらない憎悪。止まれない感情。それは、まるで涙に似ていると。 「でも。それでも……」 ぽつり、ぽつり。頬を穿つ雫は、それだけで温かく。まるで、頬を流れる涙のように。 彼の表情は、月が逆光となって、よく解らなかった。ただそれでも、その言葉には強い意志が感じられる。――それは、自分のようなちっぽけな強さではない、過去の傷痕を背負ったままに乗り越えた、そんな本当の強さ。 「それでも、愛する人を殺していいはずがない。望んでいない痛みを、その背中に背負っていいはずがない。僕は、そんなことは許せない」 お前に何が解る、と。そう叫ぶはずだった。だがそんな言葉も、上手く声になってくれない。痛みが張り付くような喉の奥で、音にもならず消えてゆく。 ぽつぽつと、雨音を強めていた雫はやがて勢いを強め、音を集めるように、ザアアァ、と頬を濡らしてゆく。肌に重く張り付いた服の上を、痛いほどに重い雨粒が穿つ。しかし、それは冷たくない、まるで誰かの温もりのようで。 (――幸せになりなさい) それは、かつて温かく自分を包んだ言葉。誰よりも優しくて、誰よりも温かい。きっと、今でも自分を抱いてくれている温もり。それは、かつて手を繋いで歩いた、母と父のそれに似ていた。 ――ああ、そうか。そうなのか。 私は、父を愛していた。母を愛していた。そこから引き離された不条理、それを癒してくれたもう一人の母親に、私はどこまでも甘えていたのだ。そうして、今でも甘えている。その優しい温もりが失われて、そしてもうひとつの、かつて抱かれた温もりを、この手に抱いた冷たさで、私はもう一度失おうとしていたのだ。自分には届かない、はるか遠いどこかへ。 それを断罪として、私は彼女に許しを乞おうとしていたのだ。甘えたまま、何も返せなかった自分を、そんな形で裁こうとしていたのだ。それでもその一歩を踏み出せなくて、何度もここを訪れた。どこまでも身勝手で、どこまでも甘えている。 許せないわけではない。復讐したいはずがない。彼がしたことではないことを、自分は知っているのだから。 頬に触れる。頬を伝う雫は、どこまでも熱くて。きっとこれは、彼女の涙で、自分の涙なんだ。 ――そうして。少女の意識は、そこで白く染まって、途絶えた。 「 「……気付いていましたか」 背後の声に、気絶した少女を抱いたまま、少年は足を止める。けたたましく大地を打つ雨は、上着を脱いだ白のシャツを、容赦なく侵食してくる。その脱いだ上着のほうは、目を閉じたままの彼女へと被せていた。 「銀と黒の聖服に、胸の紅い十字。それは、十字騎士軍第七師団、”魔術師狩り”の異端審問たる証だ。……それを知らぬ魔術師など、気が狂っているとしか思えんが」 「そうですね」 淡白に答えを返しながら、少年は振り向く。その黒の髪は今は雨に濡れていて、胸に踊る紅い十字架も、同じように雫を滴らせていた。男はふと、少年の瞳が、悲しげに沈んでいるのに気付く。それが、わずかだけ少女を見て、そしてもう一度視線を戻した。躊躇うようにして、口を開く。 「でも、貴方がやったわけではないのでしょう?」 その答えは、あまりにも簡潔だった。男は、わずかに驚いて目を見張る。 「……私が、やったと言っているだろう? どうしてそう思う」 「カンです」 即答するリズの声は、しかしその言葉の割に強い確信を纏っている。背後に、ふう、という溜息を聞きながら、少年は歩を進めた。雨足は衰えず、なかなか止みそうにない。あまりここに居ては、彼女の身体に障るだろう。 タン、と跳躍。それは、けたたましい雨音の中に、一歩分の音だけ残して、その姿はまるで霧のように掻き消えた。残るのは、雨音だけの静寂。世界を蹂躙していくような轟音の中で、ふと、男は空を見上げる。 雨の音というのは、ただ何もない静寂よりも、ひどく心をかき乱す。それがどうしてかは、彼にはわからなかった。 「――……イリア」 それは、ほんの呟き。雨音に紛れて、風に消えてゆくだけの、儚い言葉。 そうして、止まない雨の中で。グリンリッジは、いつまでも隠れない月を眺めていた。 |